第五回 春を呼ぶメール
平成27年度 研究室便り
日本酒が恋しくなる晩秋の夕暮れだったと思う。コンピュターが放つ、いつものYou got mail!の音で僕もトム、ファンクスになりきってメールを開く。メグからのメールかと思いきや、誰だ?と思いだすにも何秒かを要した。
“森先生、お元気ですか? 卒業してから何年振りでしょうか?…… で始まる文面を読み進めるうちに、その卒業生の姿が私の前に表れた。 その子の記憶が私の脳に初めて刻まれたのは3年生の学生実験の時だった。
汗水垂らして実験説明をして、ふとその学生の見ると、しきりに実験テキストに私の似顔絵を落書きしているのである。それもとても上手なのである。おいこら!と声を荒げたくなるところであったが、思わず見とれてしまった。ただ、もっとハンサムだろう!との突っ込みを入れたくはなった。 不思議とその学生のことは私の瞼に残っていた。教員にとって記憶に残るのは基本的に2つのパターンで有るのだが。一つは優秀な学生!極めて優秀である為、質問攻めにしてくれ、脂汗を流させてくれる喜びを与えてくれる学生である。 もう一つはロクデナシの学生ある。授業が始まって30分も過ぎているのにマンガを持って教室に入り込んでは、“この授業は何にも分かんないんだよー”などと叫ぶ大物ぐらいである。私はこの手の学生により脳の血管壁を2回破らされている。血管壁は3層の壁でできている為、あと1回破裂させられると私も多分、向こうに連れていかれることになるため、最近では意識して授業中に怒ることを放棄している。ただ、大学を離れて家に帰っても、最後の血管壁は風前の灯である事には変わりはないが。
さて、なぜその学生のことが私の記憶に残っているのかだが、それはその学生が実験中に孤立していたからだった。学生実験はある程度の人数で実験を行う。そのため、どうしてもその班の中で自分に自信のある学生が主導権を握る。そのため自己肯定感の低い学生や勉強に興味の無い学生はみんなの中に入れず、孤立する傾向がある。その学生は他の学生とも言葉を交わすことも無く、ただ実験をしている仲間を眺めている様子だった。私は“実験は出来るだけみんなが参加してね!”と声をかけてみたが、その学生は実験に直接手を出すことも無かった。その後も、自信の無さそうな、その学生の様子だけは気になるため、注意をして観察していた。 それから暫く経ったある日、学生の研究室配属が決まる日だったと思う。全く人気の無い私の研究室に配属希望をする学生の名簿が届いた。 あっ!この子はもしかして?と思ったらやはり、あの学生であった。
しかし、研究室に配属されると、教員として色々な義務が生じる。先ずはこの1年間無事に研究室に来てもらわなくてはならない。更にはしっかり卒業研究をさせなければならない。どこかに就職もさせたいのである。とは言っても私が面接に行く訳ではないので、基本的には応援である。そのためか、まるで我が子を見ているように私が疲れるのである。 私がその学生を研究室に迎え入れるため気遣った事が一つある。その子の特性を同級生や上級生に理解させることである。1つ、基本的に真面目であり、嘘のつかいない子である。2つ、少しボケているが、本人はいたって真剣である。3つ、思考回路が人とは少し異なるかもしれないが、決して周りの人間はイライラしてはいけない。この3点を言い含められた学生達の中で、その子は生活しているうちに笑い声や明るい表情を研究室で見せるようになった。しかしである、卒論指導は困難を極めた。おかしい!僕は一応標準日本語を話しているはずだけど!と思う事は毎日であった。なぜ、そうなるのかを分析してみた。言葉の中に幾通りかの解釈の仕方が有る場合は、決まって私の解釈とは異なる方向に理解している様だった。これは途方も無く強烈な破壊力を示す能力であり、就職試験では遺憾なく能力を発揮した。何十社受けたのか判らないが、面接試験で必ず落ちて帰って来ていた。私もどの様な質問に君は何と答えたのか?を聞いているうちになぜ落ちたのかを納得させられたものだった。
質問に対して正鵠を射る回答をすることは基本的に難しい事では有るが、ホームランを打つように遠くに外してしまうと、この人間ははたして大丈夫なのか?と面接官は心配になるものである。しかし、日本大学には就職指導課なるものが有り、就職の面接対応や自己アピールの書類なども親身に添削してくれる。あまりにも落ち続ける為、卒業研究も進まず、且つ落ち込んで帰ってくる学生の表情を見ていると、私も落ち込んでくるため、その子と一緒に就職指導課に通い、募集要項を眺め、一緒に面接指導員とも相談をしてみたりもした。しかし、その後も受け続けた入社試験はことごとく落ち、万事休す!で2月を迎えた。研究室でも、就職が決まっていないのはその学生だけであった。
しかし、である。5年間の任期採用での公務員の研究職の公募が回って来た。テストと面接があるが、今迄の多くの失敗の積み重ねと多くの応援団の助けを受けて、その学生は最後の試験に臨み、どうにか任期付きの研究職を手に入れたのが、卒論発表後だったと思う。
人には必ず、神から祝福されている点がある。その子の場合は人間が素直で正直、そして明るい点がこれにあたる。ただ、物事の理解や解釈の仕方が人と異なる点が、その子の生きづらさを引き起こしている。
ならば、完全報告である!上司から何を命令されているのかを完全に把握し、それをノートに記し上司と一緒に確認する。お互いに完全に理解し合う状況に自分を持って行く努力をする。少しでも曖昧さが残る場合は、自分で判断せず、必ず上司に報告し相談をする。残り少ない時間でこれをその子には徹底させ、これからの職場でも実践するように求めた。
卒業式の日に、卒業証書を受け取るその学生を遠くから眺めていて、私はなんとなく不安な気持ちであったと思う。
…………………学生たちの研究もそろそろ順調になってきた頃合かと思います。
ご報告が遅れてしまいましたが、先月、就職が決まり本採用になりましたことをお知らせ致します。おかげ様で試験に合格することができ、来年度の4月から現在の職場に晴れて技術職として採用されます。先生には数々のご助力頂きまして、本当にお世話になりました。最後に、研究室の益々のご活躍を応援しております。
おめでとう! 堅実な努力を怠らない人間には、いつも人生は素晴らしい。