第十一回 何の為に僕らは勉強するのか?

得心と言う言葉がある。ある出来事を心底から理解、消化して心に落とし込むことである。これにより、初めて人は多くの厄介な事柄を受け入れ、前向きに生きて行くことが出来るように思う。

あれは僕が高校生の頃、数学で空間ベクトルを学んだ時のことだった。

空間に1点(α,β,γ)が存在し、その点が方向ベクトル(X,Y,Z)を持てば直線になる。

また空間には、様々な方向ベクトルを持った直線が存在しており、その空間をある平面で切ると平面上には幾つもの点が現れる。ある平面上に、たまたま2点が近傍に有ったとする。しかし、それらの点を通る直線の方向ベクトルが異なると、2点が存在していた平面を平行移動した面ではこの2点間の距離は遠ざかる。その時、この2点をねじれの位置にあると言う。

当時の僕にはこれは数学とはかけ離れた人生哲学に感じた。僕らがこの世に生を受けた時、まさに僕らは点として存在した。そして僕らの家庭環境や教育により僕らの方向ベクトルが作られ、僕らはそれぞれの方向ベクトルに従って成長して行く。一方、時間軸で切られる平面により僕らの直線はその時々の時間平面上に友人や恋人を見出す。しかし、それぞれの人間の方向ベクトルが異なれば時間と共に二人の間に歪が広がり二度とめぐり会うことは無くなる。また、諺でもある“鉄は熱いうちに打て”は方向ベクトルが形成される幼少期の教育投資が時間と共にそうされなかった子供との差を示し、もし何か特別な能力を子どもに与えたいと願うのであれば幼年期が鍵になることをこのベクトルからも理解できる。

人が物事を受け入れるためには幾つかの認識プロセスが必要だと思う。私の場合、先ずは出来事を論理的に理解したいと思う。この理解の中には現象の理(ことわり:物事の基本的な原理、法則や仕組み)を含む必要がある。それが出来なければ、次のステップである感情や感覚でその出来事を受け入れることが難しい。

人の苦しみは無限にある。しかし、それをどの様に受け止め、受け入れ消化していくかはその人の物の考え方によって大きく異なる。いつまでも感情に翻弄され、大切な自分の人生の時間を失う事は無駄に感じる。だからこそ、人生の荒波を受け入れるために論理的に物事を解析する力が必要だと思う。

そもそも、単に生活するための数学なら小学校4年程度でも生きていけると言われている。しかし、数学は単に計算をする学問では無く、物事を成功させるための方法論を教えているように感じる。一般法則を導き出し、その法則から物事を解析する演繹的なアプローチがある。一方、n=1の時、n=2の時と具体的な値を入れて、その法則性から一般解を求める帰納法的なアプローチもある。これらはどれも僕らの人生を豊かにしてくれるものである。気になるあの子にアプローチするには演繹法的な直接的なアプローチがいいのか?それとも周りから少しずつ攻める帰納法的アプローチにするべきかは、更に生物学を深く学ぶ必要があるかもしれない。

そう、学問は人生を豊かにし、僕らを楽しませてくれ、そして涙を流す様な残念な結果を受け入れ易くもしてくれる。同じ事柄を体験しても、それを解釈し、受け入れるには人により大きな違いが生じる。人生は短い!これは真の命題である。だからこそ、より楽しく、前向きに生きなければ損をするのだと思う。だからこそ学問をしなければならないのだ。それも出来るだけ早くから。

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