第六回 科学と芸術で思うこと

平成28年度 研究室便り

サイエンスと云う言葉が巷に溢れて久しい。いたるところで、その言葉が私達の耳目に触れる。サイエンスの最も基本になるのは物事の相対化に有るのだと思う。自分の主張の正当性を他の物(コントロール)と比較して現象を論理的に解釈又は表現するものである。一方、芸術はそれとは対極にある個性の表現である。どれだけユニークであるのか?その人がどれだけ特異的に対象物を認識して、それを表現するかであろう。しかし、である。我々が追い求めている“なぜ”の追求の仕方は完全に個性的なのである。五里霧中に潜んでいる真理の追い方にある程度の定石はあるが、それで追える物には限界がある。だから、真理探究の切り口には、その研究者個人の個性が出る。複雑な現象であればある程、また浮き彫りになる真理が美しければ美しい程、探究へのアプローチは個性的になるように思う。だから、研究者は芸術的な美しい結果に辿り着くことを夢見るのだろう。

本屋をぶらつくことが好きな私が毎年、思わず買ってしまう雑誌がある。少し高価なのだが、それには新進気鋭の日本の洋画家達がその前年の作品とほんの少しのコメントを載せるのである。毎年、ドキドキしながら私はページをめくる。お気に入りの彼らが、どんな1年を過ごしたのかを知るためにである。その一人が森本草介であった(H27年逝去)。彼の絵は日本で一番高額で取引される洋画家として知られている。洋画にあまり興味が無い方は是非、検索してもらいたい。彼の絵を眺めているとセピア色の景色にショパンの音色が聞こえてくるような錯覚を覚える。同じ対象物を描き続ける画家が多い中、驚くことに彼は毎年、対象を大きく変える。風景画も有れば、裸婦画もある。だが、どの作品も単なる写実を超えた物語を感じる作品になっているのだ。

研究の世界にも銅鉄実験と云う言葉がある。銅で行った実験を鉄で行い、また別の金属で行う実験である。基本的な操作は同じである為、実験の過程で特別な困難や苦しみは無く、それなりの成果は得られる。しかし、全く新しい研究分野に踏み込むことは想像以上のストレスとお金、そして時間をかけても成果無しのリスクを伴う。絵画においても、その作を極めようと云う意識で作風が同じ場合もあるかもしれないが、これを敢て変えるにはどれだけの勇気とエネルギーが必要なことであろうか。

もう一人、思わず探してしまう画家に野田弘志がいる。最近では“聖なるもの”シリーズで人物を克明に描き出す。彼の哲学は対象物を観察し続けることから始まる。卵をスケッチするのにも“1年かけてスケッチしろ”と言っている。そのせいか、彼の巨大なキャンバスに描かれた谷川俊太郎はまるで呼吸をしているかのようである。あまりの迫力に、この絵の現物を見たくなり、美術館に足を運んでみた。驚くことに、キャンバスからたった1m離れると谷川俊太郎の鼓動が聞こえてくるのに10cmの距離に目を近付けると精緻な画素では描かれてはいないことが判る。ヒトの目の錯覚も含めて、全体として絵が精密に描かれている証であろう。見て、見て、見抜く観察眼でこそ得られる技巧なのか、一見写真のような精度でありながら、中身はそれとは異質なのである。この様な絵を描く野田弘志と云う画家には何か特別な哲学を感じる。感心しながら絵を眺めていると、その美術館の元館長がフロアーのベンチに座っていた。“素晴らしい絵ばかりですね“と声をかけてみると、意外にも”最近では、どうしても購入したいと思うような絵が減ってしまった。“ ”若い画家達の基礎デッサン力が劣ってきているのか、絵が平面的である!“と嘆いていた。

自明な事ではあるが、実に恐ろしい話である。基礎が脆弱であれば絵は買って貰えないのである。翻って、サイエンスの世界ではどうなのだろうか?まともに真理を探究するにはエベレストを前にして立ちすくむような膨大な量の基礎力が必要である。現象をしっかり観察する力、現象を数理的に解析する力、データーから仮説を立てる力、多くの英語論文などを読みこんで理解し、方法論を手に入れる力、データーをまとめる力、結果を英語論文などに書き上げる力。しかし、私が最近一番大切に思うのは、その人に取って何が一番面白いのかを見極める観察眼であり、そして、それを最後までやり抜く情熱の力なのだろう。それさえあれば、経済的な裕福さや栄誉は得られなくとも、苦しみながら何処かに辿り着けると思う。究極においてその人を支えるものは何か? 相聞する愛でも無く、その人個人の孤独と意地である。”とは誰かの言葉である。芸術にしろ、その対極にある科学にしろ、それを行うのは人間である以上、目的を成し遂げるためには孤独に耐えうる強烈な情熱が共通項なのだろう!そして、またこの情熱こそが全ての人に苦い人生と、そして甘美なひと時与えてくれるスパイスなのだろう。

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