第四回 個人的回想録、何かに取り憑かれると人は変われる

平成26年度 研究室便り

“捉まえた!捉まえた!あっと云う間にカビが線虫を捉まえる。すごい!”顕微鏡を覗くと私の視界に瞬時にカビが線虫を捉まえる様子が映った。私は思わず声をあげた。カビに補足された線虫は、どんなにもがいてもカビの菌糸から逃れることが出来ず、やがて何本もの菌糸に巻きつかれ、無情にもやがて溶かされるのであった。

教授は顕微鏡下に置かれた線虫補足菌に再度、線虫を滴下して顕微鏡を覗くと、“このカビはな、レクチン云う糖を持っとてな、マツノザイ線虫の表皮にあるムチン型糖鎖を認識して、レクチンとムチンによる化学結合で捉まえるんや! 他にも何か面白いメカニズムがあるかもしれんのや!どや森君、やってみんか?”教授は椅子から立ち上がり、再度、私に椅子を差し示した。

私は今でもこの時のことを鮮明に覚えている。私の修士論文の研究テーマである“マツノザイ線虫補足菌の線虫補足メカニズムの研究”が決まった瞬間である。

今思えば、それまで私は何か特別な職業に就きたいと考えたことは無かった。漫然と日常に流されていた。

教授の説明を聞き終わって、私には府に落ちない点があった。カビのレクチンがムチン型糖鎖を持ったマツノザイ線虫を捉まえて食べるのであるのなら、ムチン型糖鎖を持たない線虫やその他の微生物をカビは食べる事は出来ない!それは空腹なカビに取って得な戦略なのか? 私がカビなら腹が空けば、何でも食べる。それからだった、私は時間さえあれば毎日何時間も顕微鏡でカビを眺める生活が続いた。面白い事にカビは栄養物質が入って無い、ただの寒天培地で培養した時にのみ捕捉器を伸ばし、線虫を捕捉した。グルコースなどの栄養源を培地に加えると線虫捕捉能力は忽ち低下した。やはりカビが空腹なので線虫を捕捉するのだ! 次は色々な線虫を土壌から分離して入れてみた。どの線虫もカビは捕捉した。ついでにクマムシも入れてみた。キチン質のクチクラで覆われているクマムシはムチン型糖鎖を有するのかは不明だが、哀れクマムシは背中に幾本もの捕捉器を接着させていた。

ダメ押しに、ムチン型糖鎖とは無関係なポリスチレンビーズをカビに添加してみた。驚く事に線虫を捕捉するする菌糸の捕捉器に多量のビーズが付着した。多量のポリスチレンビーズで捕捉器が覆われた線虫補足菌は線虫を添加しても、もはや線虫を補足することは出来なかった。これは捕捉器の表面に何か取りモチのようなベトべトした物の存在を意味した。それでは、その物質は? 色々な染色液でカビを染めてみた。アルシアンブルーと云う酸性粘液多糖を染める液がカビの捕捉器の表面に青く染まる物質を染めだした。やはり、粘着物質はあったのだ! 更に、この粘着物質を剥ぎ取ろうと思い、研究室にある、色々な薬品をカビに添加してみた。どの薬品も特別粘着物質を剥ぎ取らなかったが、何気無く、色々な薬品で処理したカビに線虫を添加してみた。驚く事に、このカビはEDTA(Caなどと結合する試薬)などで短時間洗浄すると線虫を捉まえることは出来なかった。これは次の2つのどちらかであることを意味した。①EDTAで洗うことでカビが死んだ!②カビからCaなどが取り除かれて線虫が捕捉できなくなった。 何度試しても顕微鏡で拡大された視野には菌糸をすり抜ける線虫が見えた。時計を見るともう、2時近かった。慌てて実験台に散乱したシャーレや試薬を片付けて、寄宿舎に寝に帰った。しかし、その夜から私は興奮して眠れなくなった。興奮した神経を抑えて眠る為に、地酒の一人娘をコップに一杯入れ、一気に飲み干した。とにかく眠らなければと思い、布団にもぐりこんだが、3時間も眠れないまま目が覚めてしまった。 だが、もう眠ってはいられない、顔を洗って大学に走っている自分がいた。 不思議にお腹も空かないのだ! なぜカビはEDTAで洗うと線虫を捉まえないのか?この疑問で私の頭の中は一杯になり、生理的な欲求すらも脳は検知できないようであった。早朝から、研究室にある金属系試薬をかき集め、ひたすら色々な種類の金族イオンの水溶液を作った。膨大な種類の水溶液にEDTA処理したカビを1時間浸けてみた。その後カビを蒸留水で洗って線虫を落としてみるとCaCO3に浸漬したカビだけが大量の線虫を捕捉した。EDTAはCaと結合するため、線虫補足にCaが関係していると思われた。一方、同じCaを含んでいるCaCl2の溶液では全く線虫を捕捉していなかったのだ。CaCO3とCaCl2の溶液では何が異なっているのか?それからしばらくの間、私は朝から晩まで図書館に居たように思う。たまたま理化学事典辞典を読んでいた時だったと思う。CaCO3の溶解度積が書かれていた。CaCO3は普通の状態では水にCaが10-6M程しか溶けない。一方CaCl2はどんどん水に溶けるのだ。細胞にとってCa濃度は重要で最適濃度が存在する。濃過ぎると逆に機能は阻害されるのだ。

そこで、10-6M程の薄いCa(buffer)溶液をCaCl2で作ってみた。この溶液EDTAで処理したカビを漬けてみた。今度は薄いCaCl2では線虫を捕捉した。つまり、カビの線虫捕捉には薄い濃度のCaイオンが必要である事が判った瞬間であった。

今度は、カビから蛋白を抽出して、Caと結合する蛋白の有無を調べた。確かに、このカビはCaと結合するCa結合蛋白を持っていた! このCa結合蛋白は何だろうか?カルモジュリン?先ずはカルモジュリン阻害剤を添加して線虫捕捉実験を行うと線虫捕捉能は低下し、酸性粘液多糖も減少した。次に………

とうとう私はこの日を境にして、研究中毒になってしまった。しかし、研究をやっている間の99%は苦しいのである。全く思った通りにならないものである!でも、具合が悪くなるほど考えて、色々試して行くうちに何か必ずヒントが与えられる。それを見逃さない観察力を養う事が大切なのだと思う。

今年から私の研究チームに井上 菜穂子先生が加わり、更に研究室も移動して大きなスペースを使う事が出来る。あの頃の修士論文の研究より遥かに大きく、そして夢のある研究テーマを今私達は捉まえている。

毎朝、顔を洗う時、鏡を覗くとそこにはちょっとだけ髪が抜けて疲れ易くなったけれど、まだあの中毒を抱えたあの時の僕が映っている。

さあー、いよいよ今年から僕の本当の研究が始まる!

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